分かった???

分類なし(日々成長)

分かった、とはどういう状態か。

文字通り、『分類できた状態のこと』を分かったというのだそう。

 

ある概念があって、

それを自分の中で認識するためにカテゴリーに当てはめて分けていく作業、

それが『分かる』ということらしい。

 

そもそも、単語は違いによる区別により生まれるということ最近認識した。

絶対的な何かがあるのではなく、何かと比較して相対的に

ここが違うというところを区別するために定義していくことで生まれるのが単語だそうだ。

世界を定義する単語の平面があるとして、その中をひたすら分割していくのである。

平面を広げるのではなく、ただひたすら区切っていく。

この区画が画素数のようなものであり、世界を見る解像度が変わる。

 

日本人は虹を7色と表現するが

これは世界共通ではなく、

4色のところもあれば11色のところもある。

同じものを見ても受け取ることのできる情報に違いがある。

 

単語を多く知っているということは、

違いの分かる人でああることはもちろんのこと、

考えにおいても幅が広がる。

というよりもむしろ、その定義された枠組みでしか

思考することしかできず、

アウトプットする際もその範疇でしか表現することができない。

 

浅はかな考えで、貧相な物言いで何を表現できるだろうか。

 

語彙力を増やすにはどうするか。

読書である。

小説である。

 

読書によって得られるものは知識だけではない。

小説では、ちりばめられた語彙の数々によって世界がいかようにも表現されている。

それらを手に入れ、もう一度世界を覗くとより鮮やかに映るのではないだろうか。

 

夏目漱石は10万語を駆使したといわれる。

果たして私は何語で世界を見ているのだろうか。

昨今、Youtubeの台頭により、若者の読書時間が減少していることは想像に難くない。

知識・雑学系動画の内容のみを苦労せず、インスタントに貪り、

そして、十分に栄養を取ることなく、排泄していく。

 

世界を切り刻みたい欲にかられる一方で、言葉にできない世界もある。

感性の分野である。

それをいかに表現しても他人と絶対的な共有をすることができず

汎用性が低いため単語に落とし込むことができない。

よく食レポにおいておいしい以外の表現をいかにするか、

ということは大変重要であるかの如く説かれることがあるが、

言ったところで想像はできてもそのものずばり、が伝わることはなく、

自分で経験して初めて認識できるものもある。

そうして認識したものが他人と同様である保証もない。

 

言いあらわせない、文字通り『言葉にできない。』のだ。

 

知れば知るほど知らないことに気づく、『無知の知』とはまさにその通りであるが、

知り方さえも知らない、何をもって知ったといえるかも分からない。

もはやわけが分からない。。。

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